日本の伝統を融資で

先日、伊勢に伺った。
伊勢神宮にほど近い、ある観光開発の案件に、融資の側から携わっている。
そのご縁で、二十年に一度しか巡ってこない「御木曳(おきひき)」に参加させていただくことになった。
御木曳とは、伊勢神宮の式年遷宮にあわせて行われる伝統行事である。
二十年ごとに社殿のすべてを建て替え、神様に新しいお住まいへとお遷りいただく。
その用材となる檜の巨木を、伊勢のまちの人々が自らの手で神域へと曳き入れるのだ。
五百年以上にわたって受け継がれ、市民が遷宮に直接関われる、数少ない、そして最も誇らしい機会だという。次の遷宮は、二〇三三年に予定されている。八年後だ。
地元の人も、私のように遠方から馳せ参じた者も、ここではみな同じ「神領民」だ。日頃の肩書きや立場が、すうっと脱げ落ちていくような感覚があった。
綱を握りながら、私はいつの間にか、自分の仕事のことを考えていた。
「この壮大な伝統を、いったい何が支えているのか」と考えてしまう。
伝統は、敬う心だけでは残らない。それを支えるまちが、経済として生きていてはじめて、次の二十年へと受け継がれていく。
大学で歴史を学び、歴史は経済の変化により動いてきたと考える私にとっては、経済の大切さが身に染みている。
伊勢には参拝者を迎えるが宿が僅かながらあり、店があり、生業を継ぐ若い世代がいる。その営みの多くは、実のところ「融資」によって支えられている。
一軒の宿を建てる資金。空き家をよみがえらせる資金。後継者が事業を引き継ぐ資金。その一つ一つが、まちが紡ぎの解れを食い止める。
融資には、日本が大切にしていきたいものを後世へ残す力がある。私は、本気でそう思っている。
ただし、融資は決して投資ではない。
利息を乗せて、全額きちんと返していただくことが大前提だ。賭けには乗れない。
返せない融資は、まちを支えるどころか、かえって壊してしまう。街や地域に突然の断絶を生んでしまう。
私の仕事は「成功するか、しないか」を見極めることではない。
必ず成功する論理を、一つひとつ組み上げていく。
経営は意志、財務は論理。意志を論理としてストーリー化し、現実に変えるのが、私の大役だ。
この論理を組む力は、一朝一夕で身についたものではない。
大学院での二年間、来る日も来る日も、会社の経営計画をひたすら詰めまくった。銀行にいた頃には、たった一通の稟議書で、到底通らないはずの数百億円の融資を通してきた。きれいごとではない、血の通った積み重ねである。
論理だけではない。強い意志を示すものに道を開く。普遍的な法則だ。
その鍛錬の蓄積が、いま、目の前のお客さまの事業を、一歩前へ進める力になっている。
私が組み上げた論理が、お客さまの事業を成功させ、その人の「生きた証」として、まちとともに残っていく。
答えのない時代に、それでも一歩ずつ、お客さまと手を携えて前へ進んでいく。
その先に、自分の残した景色を見ることができたなら、私の人生はそれで満足だ。